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《本格復刻画・名画》真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)(額付き)レギュラー版 フェルメール

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光と影の天才画家
ヨハネス・フェルメールJohannesVermeer
(1632年10月31日−1675年12月15日)は、
17世紀にオランダで活躍した風俗画家。
その生涯のほとんどを故郷デルフトですごしました。
現存する作品点数は33〜36点と少なく、
このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも
10点はありますが、記録に残っていない作品を
勘案しても22年の画歴に比してやはり寡作といえます。
並外れた描写力で緻密に描かれた部分とぼやけた部分が
画面に臨場感を生み出し、光の反射を点描で表現する
技術(ポワンティエ)が、さらに緊張感をあたえます。
また、群青色の顔料には当時黄金に匹敵するほど
高価であったとされる天然ラピスラズリを原料とした
ウルトラマリンを使用し、そのあまりに美しい群青色は
「フェルメール・ブルー」と呼ばれ、時を超え人々の
心を捉えて魅了し続けています。
フェルメールは、レンブラントやダ・ヴィンチと並ぶと称され、
あのゴッホやダリをして「天才」と言わしめた、
17世紀のオランダ美術を代表する「光と影の天才画家」です。
《フェルメール略歴》
1632 10月31日 父レイニール・ヤンスゾーン・フオスと母ディグナ・パルタザールスの第2子として、
オランダのデルフトで新教会の洗礼を受け、出生届が出される。父は宿屋を営むかたわら画商も兼ねていた。
1651 父レイニールはこの年、初めてフェ/レメール姓を使う。
1652 4月5日 カタリーナ・ボルネスと婚約。立会人の中に画家、レオナールト・ブラーメルがいた。
12月29日、聖ルカ組合に画家として加入。
1665−66頃『真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)』制作。
1667 デイルク・フアン・プレイスウェイクが『デルフト年代記』を出版。同書に掲載された
アルノルト・ボンの詩の中でファブリティウスを継ぐ画家としてフェルメールの名が挙がっている。
1672 デルフトの両家ヨハネス・ヨルダーンスとともに12点のイタリア絵画の鑑定のためにハーグへ行く。
1675 12月16日、デルフトの旧教会で埋葬される。享年43歳。
原画を忍ばせるに十分な
風格を備えた、心躍る復刻画
(文章・目白大学教授 小林頼子)
フェルメールは、裕福な市民階級の女性を描いた
17世紀のオランダの風俗画家である。
明澄な北欧の光の射しこむ部屋、その窓辺で
独り日々の営みに心奪われる彼女たち。
地塗りから彩色に至る慎重な絵具の塗り重ね、
考え抜かれた構図が静謐感と作品の完成度を高める。
じっくり丁寧に制作する寡作の画家を思わせる。
実際、現存作品も30数点しかない。
《真珠の耳飾りの少女》はその現存作品の中でも
圧倒的な人気を誇る。
見る者を捉えて離さない大きな目、光を放つ真珠の耳飾り。
それでいて他者を意識しない半開きの唇、はみ出す口紅。
少女は外と内の世界の境い目にいる。
肖像画でも風俗画でもない匿名の少女に相応しい
秀抜のモティーフ処理である。
今回は、フェルメールの青の魅力を際立たせる顔料、
ラピスラズリを熟練の絵師が手彩色で施したという。
マウリッツハイス美術館所蔵の原画を偲ばせるに
十分な風格を備えた、心躍る復刻の試みである。
【小林頼子 略歴】
フェルメール研究の第一人者。2000年『フェルメール論』
『フェルメールの世界』で音楽・演劇・美術などの分野において、
優れた芸術論評を発表した人に対して送られる
吉田秀和賞を受賞。目白大学教授。
あゆわらからのコメント
「この少女、フェルメールの娘では?」
「いや、娘とは違うのではないか?」
などと、いろいろな説があり、モデルははっきり
わかっていません。
ふっと振り向いて、こちらに気づき、
ほほえみかけたような表情の少女。
この光景が、フェルメールの頭の中に
強烈に浮かんでいたことはまちがいありません。
フェルメールの心の風景・情景なのだと思います。